What words can do, what images can do [1]

絵とことばの関係について。

実は、ことばを通してしか、新しい情報を伝えられないのではないか。

絵と言葉の優劣の問題ではなく、それぞれの性質の問題として、ふとそう思うことがあった。

絵や写真(非言語のもの、イメージ)を見るとき、純粋にそれだけを提示されることは実は少ない。タイトルや解説など、何かしらの「ことば」がそばにある。見る側も、イメージを解釈する手がかりとして言葉を探してしまうものだ。

逆にイメージだけと向き合うとき、私は自分の中に既にあるもの、つまり自分の経験や知識からしか判断できない。自分の器が試されるというか。

何かを見て湧く感情、興味、気付きというのはすべて、自分の中にあったものを参照した結果で、それが表面化したり意識されたりしたもの。そうして自ら何かを発見した(ように感じる)からこそ、心に残る。いわば思考の「内への拡張」。

一方、言葉があると、私の中にはなかった全く新しい情報が入ってくる。例えばその絵のタイトルや、それが生まれた背景や文脈といった情報を受け取ることで、新たな次元で絵を見ることができる。これは「外への拡張」だろうか。

そうして経験した一連のことが蓄積して、また別の絵を見たときの参照先になる。

そして考えてみれば、これは美術館で絵を見るときに限ったことではなくて、現実も自分の眼前の「絵」だ。現実にはキャプションもタイトルも(自分の中にあるもの以外)ない。誰かと話したり、何か文字を読んだりして言葉と遭遇しない限り。

という仮説をぼんやりと立てていたら、画家の安野光雅さんも、シリーズ『旅の絵本』の巻末にそんなことを書いていた。目の前に広がる景色はすべて絵なのだ、というようなこと。安野さんの文には、その景色というか現地の諸々に介入できない旅人の宿命に対する、僅かな後ろめたさも込められているように感じたけれど。

あと、言葉が文字という形で与えられる場合、それは言葉であると同時にイメージだが、that’s another story…

どちらかというと言葉の側からそんなことを考えていたのだが、最近それをイメージの側から見させてくれる出会いがあった。[つづく]