Hardware, software and Descartes

ハードウェアにソフトウェアを乗せていくという考え方をしているものが目につく。

例えば最近、ホームステージングという家の売り方が増えているらしい。

住宅物件をそのまま売るのではなく、インテリアコーディネートをした上で売り出すというもの。生活がイメージしやすく、また陽当たりなどの面でマイナスポイントがあるとされていた物件も、それを魅力に変えるストーリーでアピールできることから、従来の方法よりも短期間で成約に至るケースが多いのだそう。

土台の構造(ハードウェア)を変えずとも、使い方のアイデアやストーリー(ソフトウェア)で色々な可能性を作り出せるということ。これを数ヶ月前に知ったとき、これなんで今までなかったんだろうというような気もしたし、違和感がある気もして、何かが引っかかった。

思えばこの考え方はThank You for Being Lateで読んだコンピュータの仮想化と似ている。むしろ、これはその分野から生まれた発想だろうか。スマホ(ハード)をアプリ(ソフト)でカスタマイズという考え方を広く一般に浸透させたのはiPhoneかもしれない。

ビッグイシュー最新号で特集されていたストリートマーケットもそうだ。公共空間という既存のストックが、マーケットというソフトの力で新しい場になる。

その後、たまたまテレビで、富山県の光岡自動車の車は既存の自動車を土台に使っているのだと知った(だから1日1台しか生産できないにもかかわらず、価格が200万円程度に抑えられるとのこと)。これもある意味、ハードとソフトの分離。

(そういえば先日、元ロルフィング講師の方から、身体の機能(パフォーマンス)が構造(身体のつくり、特性)を裏切ることがある、と聞いた。これも同じ、、?)

このハードとソフトの見方は、私たちが世界を把握する方法として、何か根源的なパターンの一つなのか。

もしかして心身二元論と関係がある?

『最新スポーツ科学事典』によると、心身二元論は

人間存在を、精神と身体という2つの原理によって説明しようとする理論。

精神と身体を異なる2つの実体と規定したデカルトの議論が、その原点とされる。

(心身の問題としての二元論の功罪や良し悪しは別として、)やっぱりこうして二元的に考える長い伝統があるのかもしれない。私がこうして色々なものを括ってしまったこと自体、その枠組みが刷り込まれていることを示しているとも言える。

そして今の世の中の色々なものが同じ「二元論」で括れるとしたら、気をつけるべきところもきっと同じのはず。

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ちなみにこの項目で「へぇ!」と思ったのが、

デカルトの[精神としての私と、物体としての身体を区別する]議論は、神の存在証明と一体になっており、身体の破滅は精神の死滅ではないという命題が背後にあることを忘れてはならない。

という指摘。そういう文脈での議論だったとは知らなかった。知らない人が多いのでは。

また、この問題について書かれた『省察』(岩波文庫、1949)の訳者が哲学者の三木清だった。三木は太平洋戦争中、画家の向井潤吉や作家の火野葦平たちとともに文化戦略の一環として東南アジアの戦地に送られた、ということを、先日、平和祈念展示資料館の企画展で知ったばかり。

企画展「従軍カメラマン小柳次一の二つの眼」