Sound studies / Studies of sound

Earlier this year I came across the work of Steven Feld, a pioneer in sound-based cultural anthropology, and was delighted to find on his website a remark about “sound studies.”

I hate “sound studies”!

I love studies of sound; that’s not the issue. I hate the conglomeration phrase “sound studies” because…

“Sound studies” totalizes the object “sound,” and it presumes an imagined coherence to that object that one is supposed to know in advance.

[From Steven Feld, I Hate “Sound Studies” ]

I couldn’t agree more with his point.
In a similar vein, think about “Japanese culture” and “the culture of Japan.”
The former presumes a pre-defined set of authentically “Japanese” behaviors, while the latter evokes an openness and a willingness to accept the reality of how people in Japan are actually behaving. I like to think those unconscious actions and customs in everyday life make up the actual “culture” of a country. But they are hard to measure.
Sadly, I sense that the kind of nationalism and aikokushin (love for one’s country) the government is trying to instill in children through school education is based on the former. It tries to teach a “Japanese culture” that ordinary citizens have long lost touch with.
This deprives children of the opportunity to see the powerful but hidden connections between themselves and their culture– in other words, to have ownership of their values and the empowerment to change that culture if need be.
To see it from the other side, if we just added a no (“of”) to the curriculum title, it might unleash so much more flexibility in the way we think about culture.

What words can do, what images can do [2]

先日イベントでお会いした画家・絵本作家の舘野鴻(たての・ひろし)さんの絵本『宮沢賢治の鳥』が素晴らしかった。

どのページもまるで仲間の鳥たちの目線で描いたような細密な描写と臨場感。羽根の中の筋まで一本ずつ丁寧に描かれていながら、図鑑のような感じが全くしないのは迫力ある構図のせいだろうか(もともと図鑑の生物画や解剖図なども手がけられていたのだそう)。その絵に、宮沢賢治の書いた言葉がそっと添えてある。巻末には国松俊英氏による解説があって、それぞれの鳥の生態がわかるようになっている。

私がブックデザインをしているという話から、絵を生かす絵本のデザインについて話してくれた舘野さん。『宮沢賢治の鳥』でも、まずは絵を感じてほしい、だから上に余計な言葉は乗せたくなかった、とのこと。何の鳥が何をしているのか、というのはここでは二次的な情報であり、絵と同居させる必要はない。そこのところを間違ってしまうデザイナーがいるとがっかりするのだそう。

舘野さんの絵を見て、本当に言葉は要らないなと思った。

説明を通して理解するのではなく、絵を好きなようにじっくりと眺めて、感覚で理解する。しばし鳥たちの目線でその世界に入ってみる。そうやって、時間はかかっても自分なりに何かを感じたり考えたりする過程があって初めて、愛着や敬意や、英語で言うownershipといったものが生まれてくるんだと思う。それはつまり自分の中に隠れていたものとの対話の過程だから。何でもネットで調べてわかったつもりになってしまいがちな時代に、その内側からの「気付き」の経験こそが貴重になる気がしている。それは誰にも真似することができないし、奪うこともできない。舘野さんの絵はそんな対話を受け止められるだけの深い懐を持っていて、その絵本のページは、絵と向き合う大事な空間なのだ。

絵本の装丁の機会はまだないけれど、絵本に限らず、言葉と絵(イメージ)のそれぞれにできることは何か、その力を最大限引き出すにはどうしたらいいか、思わぬ方向から大きなヒントをもらった気がする。

What words can do, what images can do [1]

絵とことばの関係について。

実は、ことばを通してしか、新しい情報を伝えられないのではないか。

絵と言葉の優劣の問題ではなく、それぞれの性質の問題として、ふとそう思うことがあった。

絵や写真(非言語のもの、イメージ)を見るとき、純粋にそれだけを提示されることは実は少ない。タイトルや解説など、何かしらの「ことば」がそばにある。見る側も、イメージを解釈する手がかりとして言葉を探してしまうものだ。

逆にイメージだけと向き合うとき、私は自分の中に既にあるもの、つまり自分の経験や知識からしか判断できない。自分の器が試されるというか。

何かを見て湧く感情、興味、気付きというのはすべて、自分の中にあったものを参照した結果で、それが表面化したり意識されたりしたもの。そうして自ら何かを発見した(ように感じる)からこそ、心に残る。いわば思考の「内への拡張」。

一方、言葉があると、私の中にはなかった全く新しい情報が入ってくる。例えばその絵のタイトルや、それが生まれた背景や文脈といった情報を受け取ることで、新たな次元で絵を見ることができる。これは「外への拡張」だろうか。

そうして経験した一連のことが蓄積して、また別の絵を見たときの参照先になる。

そして考えてみれば、これは美術館で絵を見るときに限ったことではなくて、現実も自分の眼前の「絵」だ。現実にはキャプションもタイトルも(自分の中にあるもの以外)ない。誰かと話したり、何か文字を読んだりして言葉と遭遇しない限り。

という仮説をぼんやりと立てていたら、画家の安野光雅さんも、シリーズ『旅の絵本』の巻末にそんなことを書いていた。目の前に広がる景色はすべて絵なのだ、というようなこと。安野さんの文には、その景色というか現地の諸々に介入できない旅人の宿命に対する、僅かな後ろめたさも込められているように感じたけれど。

あと、言葉が文字という形で与えられる場合、それは言葉であると同時にイメージだが、that’s another story…

どちらかというと言葉の側からそんなことを考えていたのだが、最近それをイメージの側から見させてくれる出会いがあった。[つづく]

Aromatical Life Design

心と身体はつながっていると言われつつも、普段結局は頭で心を制御しようとしてしまうし、それに慣れてしまっている。

友人に香りの力を教えてもらい、そんなことに気付いた。

香りは色も形もないけれど、脳(身体)に直接働きかけて気分の切り替えを手伝ってくれるすごいパワーを持っている。香りを上手に取り入れることでこんなに気持ちよく過ごせるなんて、考えてみたらすごいことだ。

種類によっては消化器官や皮膚などの臓器にも良い効果を与えたりもする。

鴻上尚史さんが著書の中で、教養とは

1:知識があり

2:それを有効に活用できること

と定義していた。

そして感情の教養が高い人(感情が魅力的な人、とも呼んでいる)は

1:自分の感情を把握できて

2:それに対応できる人

とのこと。

つまり自分の感情の地図が描けていて、今の地点から移動したい場合に何をどうすればどれくらいの時間で移動できるかがわかり、行動に移す術を持っている人。

アロマの力を味方につけるとは、感情の教養を一気に高めるということなんじゃないかと思う。

そして、香りの力を昔の自分に教えてあげたい!と思ったご自身の経験から、aromatical life designを提案して活動している直子さん、とっても素敵だなと思った。

Designer furniture

少し前にグラフィックデザイナーの佐藤卓さんのお話を伺う機会があり、特に印象的だった言葉の一つが

「デザイン家具」という言葉をなくしたい

だった。

デザイン家具は機能性より見た目重視の家具を指すこともあるだろうし、優秀なデザイナーがデザインした、生活に溶け込む家具の場合もあるだろうけど、いずれにせよ佐藤さんの言葉に全く同感だった。

私がそもそも通訳・翻訳、証券会社を経てデザインに興味を持ったのは、デザインは全てに繋がっていると思ったから。

ロンドンに留学する前から、例えば書類の右下に小さく書かれている管理番号みたいなものとか、書類を整理しやすいサイズで統一してあることとか、記入しやすいフォーマットだとか、そういう仕組みも(こそが)デザインだと思っていた。

美しいポスターを作るのももちろんデザインだけど、それが貼られる壁だって、それを見る人の動線だって、その人が勤める会社の組織だって、その人が同僚と対話しやすいと感じたり逆に孤立感を感じたりするオフィスのレイアウトだって、自動ドアだって、昼食で使う名もない割り箸だって、全部デザインされている。

デザインを日常と無関係なものとしてありがたがる風潮がある限り、デザイン家具なんていう言葉が何の疑問もなく使われている限り、身のまわりを建設的に批判することは難しい。日常生活のレベルも文化のレベルも上がらない。

もう一つ佐藤さんが言っていたのが、

共創すると(お客さんは出来上がったものを)大事にしてくれる

ということ。

ここに多分、現状を変えるヒントがある気がしている。

One of the words I wish would disappear is designer furniture.

I mean, there is no such thing as non-designed furniture.

The word exposes a terrible misunderstanding about design, and thus the world we live in.

We need to change the way we think about design, to see the connections between our daily lives and the many “design decisions” that made our world what it is today.

I’ve lately realized that one way towards such a change might be to promote dialogue and to explore ways to design together.

Look, a nicely-designed bench!

Kanji: a miniature map of the world

趣味で隷書を書いている祖父が作品の解説をしてくれた。

隷書だと、漢字の不思議な力がなんというか希釈されず、蠢いている感じがする。。杉浦康平さんの『文字の霊力』にだいぶ影響されているが、漢字は世界の一つの縮図だと思う。

石川九楊氏が『筆触の構造』で、漢字は文字ではなくむしろ単語に近いと言っていたのを思い出す。

一体なんでこんな形に?という文字が多くて、祖父が白川静『字統』も出してきてくれてつい読み耽ってしまった。

あみだくじみたいな「用」はもとは生贄の獣を入れておくための柵を表していたらしい。

その『字統』に、哲学者の梅原猛氏による追悼文の切り抜きが挟んであった。

記事によれば、立命館が大学闘争で閉鎖されたときも白川研究室は明かりがついていて、学生も押し入れない聖域のような場所だったらしい。

氏の功績をニーチェのそれになぞらえているのも興味深かった。梅原氏によれば、ニーチェはそれまで論理的世界とされていた古代ギリシアに論理で割り切れないディオニソス的な要素があったと主張して、古代ギリシアに対する見方を変えた。同様に白川氏も古代中国に対する見方をたった一人で変えてしまったと評価している。白川氏は、漢字には古代中国の人の霊的なものに対する畏れや敬意が込められていることを発見したとされている。

そういえばいま、中国でも漢字研究には白川氏の辞書が使われている(海賊版もたくさん出ている、、)と、(字統、字訓、字通のブックデザインが代表作の一つである)社長から聞いたばかり。

それから別の追悼記事で、阿辻哲治氏は白川氏が漢字学を考古学、民俗学と接続して横断的に研究していたことを指摘していた。今でこそ当たり前のように思える、分野横断的なアプローチの先駆者でもあったのだ。。

前に母が「バッハより後の時代に生まれてよかった」と言っていたけど、白川さんより後に生まれたこともものすごく有難いことのような気がしてきた。大好きな祖父の後に孫として生まれたことも:)

A is the cause of B is the cause of A

論理がいつ頃発生したか、というお話を能楽師の安田登さんから伺った。

安田先生によると、紀元前1000年頃の古代中国で、論理を記した文の最初の例が見られるとのこと。

なんと、古(こ)という時間を表す形容詞を使って因果関係を表していて(イメージとしては「A古B」?)、これが故(こ)に変わった(「A故B(AゆえにB)」)というようなことらしい。時刻や時間を表す言葉はその前からあったようだが、それを因果関係の記述に展開したというのは相当画期的だったのではないかと思う。

レイコフとジョンソンの名著 Metaphors We Live By(メタファーと人生)でも「因果関係は人が周りの物理的、あるいは文化的な現実を整理するために最もよく使われる概念の一つ」とあるように、因果関係は私たちにとってなくてはならないもの、認識の根底にあるものといってもいい。

感動したので、どういうことか自分なりに考えてみた。

「A故にB」という因果関係を時間の形容詞で表現したということは、時間の前後関係と物事の因果関係を重ねることを発見したということなのではないか。

結果が原因より先に来ることはないから、ぴったりはまる(ように見える)のだ。

しかし最近思うのは、原因と結果を複雑な世界から切り取ることの難しさ、そして「時間の方向=因果の方向」の考え方だけでは捉えきれないものがあるということ。

つまり、時間は戻ることはないけど、因果関係は行き来することがある。AがBを引き起こし、それがさらにAを強化するケースはいくらでもある。それが見えていなくて対症療法を繰り返してしまうことも多い。システム思考でいういわゆるフィードバック型システムのように。

だとすると、現代の世界の問題の根本にある、一方向的/リニアな世界観を変える鍵の一つがここにある気がする。

László Moholy-Nagy LX
みんな2周くらいまわって意外なところでつながっている、かもしれない / László Moholy-Nagy LX (1936) ラースロー・モホイ=ナジ『LX』1936年 / Kawamura Memorial DIC Museum of Art. DIC川村記念美術館蔵